2015平和メモリアル その8

花火やペルセウス座流星群の投稿記事が続き,中断していた平和メモリアルを再開します。

その8は,原爆の子の像です。
2歳で被爆し,白血病で12歳で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ,原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め,世界平和を願ってつくられました。
禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちが,全国に募金を呼びかけ,1958年に建立されました。

禎子さんが「鶴を千羽折れば病気が治る」と願い,懸命に生きようとした「サダコ」の物語は,『サダコと折り鶴』として出版翻訳され,外国にも紹介されました。
外国人がとても多かったです(8月4日撮影)。
この物語が国内外の人々にもっと広く伝わればと思います。

 

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2015平和メモリアル その6

平和公園内にある原爆供養塔は,1955年に建立されました。
被爆直後,慈仙寺境内は臨時火葬場となり,身元がわからない多数の死体が集められ火葬されました。
その後,市内各所に散在していた原爆被災者の遺骨も集め,地下にある納骨室に納められました。
説明板には,「犠牲者数万柱の遺骨」と記されています。

 

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2015平和メモリアル その7

平和の女神像と8羽の鳩を配した5層の塔の「動員学徒慰霊碑」は,原爆ドームのすぐ南にあります。
第二次世界大戦中,勤労動員され戦禍に倒れた学徒と,原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるために建立されました。
塔のサイドには4枚のレリーフがあり,当時の学徒の作業の様子が描かれています。

 

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2015平和メモリアル その5

平和公園一帯は戦前,中島本町とよばれ,商店や映画館・カフェなどが並び,繁華街でした。
爆心地に近く,458人が犠牲となり,住民のほとんどが死亡し,街は姿を消してしまいました。
戦後,犠牲者への慰霊のために建てられたのが,「平和乃観音像」です。

平和公園についての案内は,次のサイトをご覧下さい(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/Virtual_j/tour_j/guide1.html)。

 

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原爆投下前の中島本町